34. 切れちゃった
「ぐっ……」
 きつい一撃を腕に受け、乱中丸は思わず小さく呻いた。
 既に、追手に囲まれてから十分近く経過している。もともと持久戦は苦手な乱中丸だが、それにしても蓄積された疲労が苦痛になり始めている。
「畜生……俺もほんまは、守護霊で体力補正してたって事か?」
周囲から辛うじて距離を取りつつ、新宿御苑を更に奥へと進んだ。


「本当なら期限はまだ十分あるが、早速手続きに入ろう」
 獅子樫氏は南京之介と向かい合い、事務的な口調で話し始める。
「言った通りお前は、私に勝つために守護霊を使う事は出来ない。そのため、期間中はこれを持ってもらう事になる」
 その言葉に合わせて、警護官が風呂敷に入った何かを南京之介に差し出す。南京之介はそれを見た事があった。十年ほど前と……つい先ほどに。
「……金魚鉢」
「軽く触れるだけでいい」
 包みの結び目を持つだけで、ぴりぴりとした違和感が手元を伝ってくる。不快感に顔をしかめながら、南京之介は風呂敷の隙間から手を差し入れた。
 瞬間。
 途方もない量の疲労感と痛みに、南京之介は思わず膝をついた。悲鳴をあげる骨を抑えつけるように震えが走る。呼吸が浅くなっていくのを止めようと腹筋に力を入れるが、伝う汗が集中力を削いで上手くいかない。
「南京之介君!」
 義母が心配そうにこちらを見ているが、その声で精神だけは平静を取り戻した。単にしばらく無茶をした事のツケなのだから、これ以上醜態は晒せない。
「上等じゃねえか」
 大きく息を吐いて、南京之介は再び父親を見据えた。


 ヒブナスは受話器を握ったまま、愕然として呟く。
「あなたに、ジキンズをどうにかできる筈がない」
「そう思うのは結構だが、理事長。その状態で獅子樫家に向かえるかね?」
 その台詞に、歯噛みしたくなる。奥多摩へ向かっているジキンズとチョウは正確な現在位置を把握しにくく、しかも二人きりでいる。物量戦でかかれば押し負ける可能性は否定できない。
「いいかい理事長。日本と西欧との経済安定だけを考えればいい君には、獅子樫と鉄尾の争いなど無関係の筈だ。黙って静観していれば、君の情報屋はそのうち帰ってくる」
「しかし……その発言が信用に足るとは言えない」
「そうだな。だが、こちらには嘘をつく理由がない」
「なら聞こう。こちらにそんな電話を寄越すということは、奥多摩に蘭々が派遣されれば状況が変わる危険があるという事だな?」
「だとしたらどうなる? 同じ蘭々として執行部の恐ろしさはよく理解しているよ。しかしそれは、派遣されたらの話だ」
 まったくもって相手の言うとおりである。
 ヒブナスは次の一手を考えながら押し黙る。そのとき、不意に受話器を握る左手が激しく揺さぶられた。
「冗談じゃないわよ!」
「鮒子!?」
 状況に気付いた時には、ヒブナスの右にいたはずの鮒子が反対隣に移動し、無理矢理に受話器を奪い取っていた。
「あんたねえ、ヒブナスに何を吹き込んだのかは知らないけど、そんな事で私たちが止まるわけないでしょ!?」
 送話口に向って怒鳴る鮒子は、いつになく感情を高ぶらせていた。見開いた目は今にも涙がこぼれそうにさえ見えて、ヒブナスをはっとさせる。
「私達が背負ってるのは、経済的な支配権なんかじゃない。日本の未来が全部かかってるの! あんたたちが脅かしてるのはそういうものなの!!」
 怒鳴り声は悲鳴にさえ似ていた。
「それに……それに、未来を背負ってるのは友達の実家なんだから! 私達が絶対に守らなきゃいけないものなの! 諍いに付け込んで利権だけを狙ってるあんたたちなんか……あんたたちなんか、いずれ正義の味方にぶっ倒されるんだから!!」
 そこまで言い放った後、鮒子はしばらく固まっていたが、ふっと我に返ってヒブナスを見た。
「ごめんヒブナス。電話、切れちゃった」
「いや、大丈夫だ」
 むしろ謝るべきは自分の方だと、ヒブナスは思う。今は立場を気にして、友人を助ける事に理由をつけている場合ではなかった。今の言葉は鮒子ではなく、自分自身で言うべきだったのだ。
「さてヒブナス。次の一手は?」
「ジキンズ達の事についてはこちらで調査を回すとして、無駄話のせいで時間の余裕がなくなった。先にヘリを手配する」
 と、その時。
 扉をノックして、アカデさんの声がした。
「失礼。ヒブナス様……ジキンズ様とチョウ様がお帰りになられました」


 その頃、乱中丸は玉藻池の淵に追い詰められていた。
 新宿御苑内でもかなり西側にあるこの池は、先程まで乱中丸がいた広場からそう遠くはない。しかし、それは明らかな逃亡であり、敗走だった。
 そろそろ体力は限界に近い。敵方は決してこちらの命までは奪おうとしていないようであるが、それがかえっていたぶられているかのような焦燥感を煽る。深追いはされないが逃がしてもくれないようで、少なくともしばらくは戦闘不能にしようという意図が透けて見える。
「とにかく俺にだけは、これ以上表に出てきて欲しくない、ゆう事か」
 状況は理解できたが、打開策は思い浮かばない。いっそ戦闘意欲をなくした振りをしようかとも思ったが、相手の殺意を完全には否定できない状態ではリスクが高い。結局、回避を中心に少しずつ応戦しながら、距離を保っていく消耗戦に持ち込むしかないようだ。
 当然それは、乱中丸が最も苦手とするタイプの戦闘である。
「なんとかして御苑を出なあかん……」
 頭ではわかっているものの、それは当然敵にも知られている。乱中丸を逃がさないように、御苑内部へと追い込もうとしているのが分かる。
 もし本当に体力が尽きたらと、嫌な想像をする。それで終わりの筈だ。命を奪う気があるならもっと積極的な戦法に出る筈で……しかし、絶対にそうだとは言えない。
 気持ちの迷いが判断の遅れにつながった。
 視界の端で突き出される警棒に気付き、慌てて体を捻る。その無理な動きが負担となり、昨夜の雨でまだ少し湿っていた芝と相まって足を滑らせる。気付いた時には体勢が崩れ、乱中丸の体は玉藻池へ投げ出された。
 派手な水飛沫が上がる。

 ところが。
 派手に池に落ちた乱中丸は、妙な感覚に気がついた。
 妙といえば妙なのだが、何故か自然と受け入れられるようでもある。全身を包み込むようなぬるい感触、腹部の重み、そして何より軽減していく痛みと、不思議な高揚感。
「……そっか、そうやな」
 ほんの一瞬、乱中丸は水中でにやりとする。
「……『金魚鉢』。使えるようにするには……『水を入れる』やったか」
 そして乱中丸は池から垂直に飛び出した。不死鳥のオーラをまとわせて。


「ええっ! 僕達、人質に取られてたの!?」
 ヒブナスの家に帰ってきたジキンズとチョウは、ヒブナスの話に揃って目を見開いた。
「ほんとに牽制程度の妨害だったから、本隊の目当てはヒブナス君じゃないかと思って急いで帰ってきたのに」
「その判断は向こうとしても意外だったかもしれないが……ともかく、君たちとの連絡を一時的に遮断する目的だったのは間違いないな」
「その辺の考察は私達でしておくから、ヒブナスは先にヘリを手配しなよ」
 鮒子の言葉で、ヒブナスは慌てて執務机へと戻る。鮒子たちは執務室の応接スペースで会話を続けた。
「少なくとも、こっちの動きは二十分近く遅れてるから、そういう意味では向こうの思惑どおりなのかも」
「ヘリの手配は終わったぞ」
 ヒブナスも戻ってきた。
「あとは獅子樫家に連絡がつけばよいのだが……おそらく南京之介の方はもう到着している。対応を頼むのは難しいかもしれない」
「いざとなったら、蘭々と正義の味方とで強権発動しかないかもね」
「でも、わからないわね……」
 鮒子が腕を組んで神妙な表情を作る。
「ヒブナスには電話を寄越しただけだった。チョウ達のところにも、目新しいのはトレーラーだけで人員的には最低限だった。じゃあ、『Groene Toad』の主力はどこにあるの?」
 その問いへの返答は、意外な方向から返ってきた。
「それは……想像がつかん事もないで」
「乱中丸!!」
「悪りぃ、遅ぅなったな」
 二階の窓越しに疲れ気味の笑みを見せる乱中丸の背後では、すっかり復帰した守護霊がしっかりと乱中丸を支えて飛揚していた。

 窓から執務室に入ってきた乱中丸は、すぐに話を続ける。
「話は途中から聞いとったけど、俺を襲った連中も人数はほとんどおらんかった」
「乱中丸も、メインのターゲットじゃないって事か」
「せや。そうすると、残るんはどこやと思う?」
「……南京之介」
「でも、今になって南京之介を襲う意味なんてないよね? その意図があるなら真っ先に狙ってるはずだし」
「ちゃうちゃう。南京之介やと半分正解、半分不正解や」
 そう言われて、チョウにもようやく合点がいった。
「そっか。奥多摩……獅子樫家と鉄尾家が争ってる渦中、って事だね!」
「それもそうだね」
 ジキンズもその意見に同調する。
「少数人員で僕らを足止めしたのも、奥多摩の争いに介入するタイミングを遅らせる策略だったとすれば納得がいく」
「とすると、やっぱり奥多摩に行くしかなさそうね」
「ああ。事態はおそらく、一刻の猶予もない」
 ヒブナスは立ち上がり、他の仲間たちにも移動を促した。
「獅子樫家に連絡を取るより、直接行った方が速い。ヘリに五人は少々乗りすぎだが、今は全員が体力を温存しなければならない」
「じゃあ……」
 言いかけたジキンズを制して、ヒブナスは向き直った。今度こそ、自分で言わなければならない。
「日本と仲間を守るため、今はなりふり構っていられない。獅子樫も鉄尾も、蘭々もGroene Toadも知った事か。我々は我々の意思で、大切なものを守るんだ!」
「おう!」
 思わず強くなったヒブナスの語尾に、四人の応答が重なった。



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