37. 手を繋ぐ
 時刻はそれから一時間ほど進み、夕暮れ迫る奥多摩にて。
 十数分でGroene Toadを一網打尽にした南京之介たちは気分よく帰宅し、獅子樫邸内に三か所ある浴室で手早く順序良く汗を流した。その後、一旦はまとめて広間で落ち着いたものの、南京之介は様子を見て自室に戻った。
 部屋を父親が訪ねてくる予感がしたのである。

 もちろん父親は現在自力で移動できないので、警護官が金魚鉢を運んできたのであるが、早々と引き上げて部屋には親子だけが残された。その数分前に義母が届けてくれた麦茶がまだ机の上に残っていたので、南京之介はそれを持って縁側に移動する。
 父親はそれを待って、何気ない口調で話し始めた。
「まずはおめでとう、南京之介。十代で跡継ぎの資格を得る事は稀なのだから、大いに誇ればよい」
「……どうも」
 山の日暮れは早い。あっという間に薄暗くなる周囲に合わせて、南京之介は部屋の蛍光灯をつけた。和室に合わせた、柔らかな黄色の照明である。
「なあ、父さん」
「どうした?」
「俺さ、どうしても聞きたい事があって、その……」
「?」
「いや、なんていうか、聞いちゃいけないんじゃないかと思わなくもないんだけど……」
「妙に回りくどい言い方だな、お前らしくもない。ある程度は私と対等の立場とも言えるのだから、気を遣わずに聞けばいいだろう」
「じゃ……じゃあさ」

「その……
  なんで、『リュウキング』なんて名前にしたんだ?」

 獅子樫氏は一瞬だけ呆気にとられた表情を浮かべ、それからリアクションに困ってせわしなく胸鰭を揺らした。
「お前……今まで、そんな事を気にしていたのか?」
「あーっ、だから聞くの嫌だったんだよ! そんな事でここ何年も結構落ち込んでたとか、恥ずかしすぎるだろーがよ!」
 言葉通りちょっと顔を赤くした南京之介は、裏庭の方に顔をそむけてやるせない感情をごまかす。父親はその様子を和やかに眺めて、けれど気遣いを込めて自らも視線をそらせた。
「いや……すまなかった。そりゃあお前としては、落ち込む気にもなるだろうな」
 存外にすぐ謝罪が出て来て、南京之介は拒絶の態度を緩めざるを得なくなる。
「実はな南京之介。『リュウキング』は、私が考えた名前ではないのだよ」
「……っ?」
「鉄尾の方もそうだが、いつからかそう呼ばれていたらしい。文献が残っているところでは江戸末期……名付けられたのもその時期ではないかと言われている」
「へ……へぇ……」
 つまりこの人類を遥かに凌駕する存在は、ここ200年ほどもそう呼ばれ続けていたのである。
「なんでそんなダサい名前に……」
「さて。諸説あるが、むしろ何も考えてなかったんじゃないか?」
「はあ……」
 脱力する南京之介。父親はばつが悪そうに視線を外したまま話す。
「いや、契約してきた直後に、お前が喜んで名前をつけようとしていたからな。代々決まった名前があると教えたらがっかりして先祖を恨むだろうから、父さんがつけてやろうと言ってしまったんだ」
「そっか。……確かに俺、あの時そう言われてたら腹立てたかもな」
「しかし、そのまま訂正していなかった事をすっかり忘れていた。おかげで妙なわだかまりを作ってしまったようで、申し訳ない事をしたな」
「謝らなくてもいいよ、別に。それでなんか困ったわけでもないし」
 これまで間違った事を信じさせられてきた事に、不満が一切ないわけではない。しかし、当時の父親の気持ちはよくわかるし、その程度のごまかしを忘れるのも仕方のないことだ。少なくとも今、南京之介は父親と対等の立場にあり、そして互いの不始末を許し合う事が出来るのである。
「でも父さんも、なんでこんなダサい名前なんだろうって思っただろ?」
「そりゃあ思ったとも」
「三十年前でも?」
「まあ今ほどではないにしろ、それなりにな」
「やっぱりそうだよなぁ? ほんと、わけわかんねえよな」
「……でもお前、最初父さんが名前を出した時は結構喜んでだぞ? 『何それ超かっこいい』って言ってなかったか?」
「!? 記憶にねーぞ、そんなの!」
「お前、都合の悪い記憶を消してるんじゃないのか?」
「ちっ、ちげーよ!! 言ってねえってば!!」
 親子は顔を突き合わせ、そしてどちらからともなく笑いをかみ殺す。


 さて、別の座敷では鉄尾流氏が、来客用の湯呑みを片手に裏庭を眺めていた。久しぶりの来客で賑わう獅子樫邸内の喧騒が、やや遠く聞こえる。
 ふと鉄尾氏は、背後の襖が開く音で顔を上げる。
「……親父、ちょっとええか?」
「乱中丸か。……まあ座れ」

「私はお前にどうして欲しいのか、と。そう尋ねたんだったな」
 それは確か、今日の午前中の話である。あれから色々な事が起こりすぎて、ずいぶん昔の事のような気さえする。
「せやったな。親父は結局、どうしたかったん?」
「……そうだな、何から話そう?」
 鉄尾氏は相変わらず乱中丸の方をあまり見ず、裏庭の林ばかり眺めている。
「私が何を考えて何をしようとしていたのか、そのうち話す時が来るだろう。けれど、今はその時ではなかった」
「なんで? 今話したら悪い事でもあるん?」
「然るべき時まで聞くべきでないことなど、世の中山ほどあるだろう」
 それを即座に否定できるほど、乱中丸も人生経験貧弱ではない。それでも不服そうなポーズだけは作っておくことにする。
「ったく……まぁ、ええわ。親父の考えてる事はよーわからんけど、細かく興味あるわけでもないし。俺かて、親父の言う事全然聞いてへん自覚はあるしな」
「……乱中丸」
「何?」

「私は酷い父親だろう?」

 乱中丸は思わずたじろぎつつも、きっちり文句はつけておく。
「あんさあ親父。そういう言い方されたら、『そうやな』とは言われんくなるやん」
「ははは、それもそうだ」
 返答はさりげないものだったが、乱中丸は思わず目を見開いた。
 父親の笑い声を聞くのは、いつぶりだろう。

「乱中丸。私がお前をどうしたいのか……いや、私はお前にどうしてほしいのか、私にもよくわかっていないのだ」
「何やそれ?」
「それに、どうすれば『お前を幸せにできるか』、それもわからん」
「……」
「好き勝手にさせるのがよいか、黙らせるのがよいのか、いつもわからないままに憶測で動いている。だからきっと、お前の幸せにならない事をたくさんしているのだろう」
「それは、でも……」
「だからお前には、私の事を酷い父親と呼ぶ権利が十分にある」
「やめろや!!」
 下を向いたまま父親を制止して、乱中丸は吐き出すように言う。
「そんな言い方したかて、許せん事もいっぱいあるんやで!?」
「……そうだな。本当にすまない」
「せやから謝るなって!!」
 体ごと互いに反対側を向いている二人は、それでも何かしら似通った雰囲気を漂わせていた。
「親父の言う事はたまに無茶苦茶やし、わけわからんし、嫌やった事もいっぱいあるけど……せやけど、別に憎いとは思ってへんし」
「…………」
「いつでも一番いいやり方選んでくれるとか、そこまで期待してへんし。それに、自分の都合だけ考えてるんでもないって、知ってたつもりやし!?」
 乱中丸の口調は、内容と反比例して荒っぽくなる。
「それにや、俺は別に、親父に完璧とか求めてへんねん! せやろ!?」

「……そうか」
 息子の話を一通り聞いた後で、父親がいつも言う台詞である。しかし今日は妙に穏やかで、乱中丸はひどくむずがゆい気持ちになる。
「なあ親父、そのうちまた獅子樫と喧嘩する気あるん?」
「どうだろう。そうすべきなのかもしれないが……正直な所、そこまでの気力はもうないかもしれないな」
「ふーん。……まあ、俺の代になってやっぱり喧嘩しといた方がよかったって思ったら、そん時は俺の判断でやると思う」
「ははは、それは頼もしい」
「せやから親父は……獅子樫の親父とだけ喧嘩しとけばええわ」
「そうかそうか。では、息子は任せたぞ」
「おうよ!」
 そこでさすがに耐えきれなくなり、乱中丸は声を出して笑う。流氏の方も少し笑ってから、不意に久しぶりの表情を浮かべた。
 子どもにとっておきの秘密を教える、親しげでいたずらっぽい笑顔である。
「なら乱中丸。私に滅多な事は起こらないと思うが、私の知らない所で獅子樫の父親に困らされるような事があった時のために、いい事を教えておいてやろう」
「えっ、何?」
「獅子樫の奴だが……あれで結構、もののセンスが悪くてな。若い頃は流行り始めた渋カジを気取って、似合いもしないスタジャンを着て得意になっている写真が残っている」
「マジなん!? ほんまに!? 何それ!?」
「それに当時のジーンズという奴は青々としていてな、太くてまっすぐで、今になって見ると……」

「ちょっと待て鉄尾!!!」
 ガラリと襖を開けてその場に乱入したのは、獅子樫家の当主……もちろん自力では動けないので、実際に襖を開けたのは金魚鉢を抱えた南京之介である。しかし、南京之介の途方に暮れた様子と、全身で怒りを表現する金魚の様子から、襖を開けさせたのが父親の方であるのは明らかだった。
 一方の鉄尾側は、思わず絶句した乱中丸に対し、父親の方は落ち着いた様子である。シニカルな微笑さえ浮かべつつ、獅子樫氏に向かって言い放った。
「おお獅子樫か。息子に事実を教えて何が悪い」
「んな悪し様な言い方で何が事実だ!!」
 ここで息子同士は一瞬、互いの顔を見て同情を浮かべそうになったのだが、獅子樫氏の次の一言で場は凍りつく事になる。
「じゃあ言わせてもらうがな、鉄尾。私がその似合いもしない渋カジで大いにもてていた頃、お前はとっくに廃れたアイビールックで硬派気取ってただろうが!」
 今度は鉄尾氏の顔が紅潮する番だった。獅子樫氏は構わず続ける。
「お前ときたらもともと細身のくせに、コットンパンツなんて履くとまったくもって貧相で、しかも……」
「……おんどりゃ」
 鉄尾氏の口から、地の底に響きそうなほど極悪な声が漏れる。日頃は関西弁を使わない鉄尾氏だが、本来の訛り方はさすが年配者、乱中丸よりずっと強烈なのである。
「誰が貧相や、どつくぞこのボケカス! おどれは気色悪い赤と黄色の柄シャツでも着とけやゴルアァ!!!」
「ぐっ! そういうお前は、髪は長めだったが七三だっただろ? どうして今は……ああそうか、量の問題か?」
「しばいたろか!? そのアホ面晒して渋谷でナンパ試したときの話、息子にバラしてもええんやで!?」
「待て待て! なら、お前を合ハイに誘った時に……」
 不毛な罵り合いは、もう少々続きそうであった。


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